May 31, 2011

不動産投資信託とキャピタルゲイン

不動産投資信託は、大きくキャピタルゲインを目指すことはないと思う。ミドルリスクミドルリターンと言われるが、確かに大きく上下もなく、一方、分配金は安定的に支払われる。今、自分の株式投資を熱心に、不動産投資信託へ転換する。今後もこの流れを続けるつもりだ。しかし、最近の価格下落が激しい。
アパート経営に従事する見返りに最も感謝の入居者はどんな方々でしょうか、私が思うに一番最初に家賃を滞納していない人、第二は、紛争を起こさない人、三番目が長く部屋を続けてくれる人ではないか。まあ、一見上記の基準は通常、でも実際に仕事をして、入る人は、理想的な入居者だけではない知っている。やはり保証金、報酬はしっかり持って、アパート経営者としての入所者を厳密にすることも時には重要です。一時的な入居率の低下も、確実に信頼できる人々を入居させたのが、後で有利です。
 【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】第4部 新・停滞の時代(1)

 「裏切り者!」「ろくでなしめが!」。老人は声を荒らげ、ゴルバチョフ元ソ連大統領(80)の写真に指を突き立てた。

 ソ連崩壊を決定づけた1991年の守旧派クーデター事件で、「8人組」と呼ばれた首謀者の1人、バクラーノフ氏(79)だ。軍や安全保障問題を扱う大統領の直属機関、国防会議の第1副議長の地位にあった。

 幼少時、独ソ戦でナチス・ドイツが故郷のハルキフ(現ウクライナ北東部)を占領し、ソ連軍が奪還するのを目撃した。「飢えていた私たちに食べ物を与え、服を着せ、教育を施した」とし、今もソ連の独裁者スターリンを敬愛する。

 さらには、「母はウクライナ、父はロシア出身だ。同じスラブ民族の地域が分離するなど狂気の沙汰だ」とソ連崩壊を非難してやまない。

 91年当時、ゴルバチョフ氏が進めるペレストロイカ(改革)の波に乗って、ソ連邦内の共和国では独立機運が高まっていた。軍や国家保安委員会(KGB)などの守旧派と、改革派の板挟みにあったゴルバチョフ氏は、構成共和国に権限を大幅移譲する「新連邦条約」の締結に、「ソ連存続」の望みを懸けた。

 しかし、条約を「ソ連崩壊の序曲」とみた守旧派は調印を2日後に控えた同年8月18日、行動に出る。

 黒海に面した風光明媚(めいび)なフォロス(現ウクライナ南部)の大統領別荘。ゴルバチョフ氏が避暑のため家族と滞在していた別荘はその時、KGBによって監視下に置かれ、電話回線も切断されていたといわれる。

 「体調が悪いのだ」。夕刻、いきなり訪れた守旧派のボルジン大統領府長官らを前に、セーターを着込んだゴルバチョフ氏は緊張した面持ちだったという。辞任を拒むゴルバチョフ氏をそのまま軟禁した守旧派は翌19日、「健康上の理由で大統領は職務遂行が不可能になった」と発表。ヤナーエフ副大統領の全権掌握という衝撃的ニュースが世界を駆けめぐった。

 ところが、守旧派の天下は文字通り3日で終わる。失敗に終わったクーデターの背後に何があったのか。

 ■守旧派を復活させた「郷愁」

 1991年8月18日。クリミア半島の先端、フォロスの大統領別荘を訪れたソ連守旧派メンバーの中に、国防会議の第1副議長だったバクラーノフ氏の姿もあった。同氏の証言によると、ゴルバチョフ・ソ連大統領(当時)は辞任を拒否する一方で、「どうぞ行動しなさい」とクーデターを黙認する発言もしたという。

 その後、バクラーノフ氏らはモスクワにとって返し、用意されていた「国家非常事態委員会」の設置を宣言する声明に署名した。

 モスクワでは、ロシア共和国の大統領だったエリツィン氏らがロシア最高会議ビルに籠城しクーデターへの徹底抗戦を宣言。数万人の市民が“人間の鎖”で防衛に乗り出していた。約70年に及ぶ全体主義ソ連との決別を熱望する思いが、最高潮に達した瞬間だった。

 ビル突入の命令を受けていた特殊部隊「アルファ」のゴンチャロフ副司令官(同)は現場を下見した。ゴンチャロフ氏によると、彼が「作戦を実行すれば罪なき市民に大量の被害が出る」と部下に告げると「内戦を始める必要はない」と異口同音に声が上がり、部隊は静観を決め込んだ。この“謀反”でクーデターの失敗は決定的になった。

 ◆プーチン氏に期待

 ゴルバチョフ氏はモスクワに無事帰還するが、クーデターは政権を担う側近らの仕業だったと判明、その権威は地に落ちる。ソ連が世界地図から姿を消すのはわずか4カ月後のことだ。

 ソ連崩壊後、エリツィン氏は民主化実現への期待を背に、新生ロシアの初代大統領となった。しかし、その治世は第3部で描いた通り、国民の暮らしを上向かせるどころか、振り回すばかりだった。

 通貨ルーブルが暴落した98年から99年にかけ、エリツィン氏は国民の自らへの非難をかわす狙いなどから、4人の首相を更迭。この年の大みそかには自らの大統領辞任を表明し、後継に指名したのが旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身で首相を務めていたプーチン氏だった。

 エリツィン氏が対峙(たいじ)した守旧派が、ソ連崩壊から約10年をへてクレムリン(大統領府)への足がかりをつかんだことは、歴史の皮肉というほかない。

 ただ、90年代の混乱で疲れ果てた国民にとって、「強いロシアの再興」というフレーズを掲げて登場したプーチン氏が頼もしくみえたことも、疑いのない事実といえる。

 自由と民主主義は豊かな暮らしをもたらす−という民衆の希望は失望に変わり、貧しくとも秩序と安定があったソ連への「郷愁」が頭をもたげていた時期に当たるからだ。

 ◆ロシア漂う“亡霊”

 冒頭で紹介したバクラーノフ氏はクーデター失敗の直後に逮捕され、1年半を獄中で過ごした後、エリツィン政権が発した恩赦により釈放された。

 かつてクーデターを取材したジャーナリスト、ディマルスキ氏(現ロシア新聞コラムニスト)は、スターリンを批判しつつもその信奉者を一掃できなかったフルシチョフを例に挙げ、「クーデターの首謀者を釈放し、自由な活動を許したのは誤りだったかもしれない。ソ連共産党の罪を問う法廷も完結しなかった」とし、“ソ連の亡霊”はいまもロシアを漂っている−との見方を示した。

 2000年3月の大統領選で当選を果たしたプーチン氏は、下院の野党を切り崩して総与党化への道を開き、地方首長の解任権も手にするなど、就任1年目から権力確立に向けて地盤を固める。それは、新生ロシアでKGBや軍、内務省出身者ら守旧派が本格的復権を果たす兆しでもあった。

 クーデター発覚から19日で20年。このとき失脚したはずの守旧派はその後、プーチン氏(現首相)の大統領就任(2000年)とともに復権を果たす。第4部では旧ソ連のブレジネフ時代(1964〜82年)同様、「停滞の時代」とも指摘され始めた「プーチンの時代」を振り返る。(佐藤貴生)
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